玉川上水は江戸の町や武蔵野台地の村々へ生活用水を供給するために、約350年前に作られた上水道である。
江戸時代初期、急速に発展しつつあった江戸では水が不足していた。そこで、多摩川の水を取り入れ、武蔵野台地を掘って約43km先の四谷大木戸(現在の新宿区)まで流し、そこから先の江戸の町へは石や木で作った水道管によって給水する計画が立てられた。
このフルマラソンと変わらない長い距離の上水道開削計画は、工事の総奉行に老中の松平信綱、水道奉行に伊奈忠治が就き、庄右衛門と清右衛門という二人の兄弟が工事を請け負うことになった。工事は幕府から6,000両もの資金が投下され、1653年4月に着工するが、2度失敗する。
初めは日野からの取水を計画するが、水が地面に吸い込まれるという現象が起こり失敗してしまう。恐らくは浸透性の高い関東ローム層に当たったと思われる。土が水を食らっているように、あっという間に水が吸い込まれたことから、当時は水喰土(みずくらいど)と呼ばれた。
2度目は、福生からの取水を試みるが、この時は掘削中に固い岩盤にぶち当たってしまい失敗。
そして、3度目の正直になったのが、羽村からの取水であった。松平信綱の家臣で安松金右衛門という人物がこの場所を選んだと言われている。安松金右衛門は算術が得意だったため、設計の見直しをする様に命じられたのであった。
大規模な難工事のため、途中で資金不足となり、困り果てた庄右衛門と清右衛門は、何と自分たちの家や畑を売って工事の費用に充て、同年11月にようやく玉川上水を完成させるのである。
この完成により、庄右衛門と清右衛門は「玉川」という名字を名乗ることを許され、上水の管理の仕事を任されるようになった。玉川兄弟による上水の管理は江戸時代の中頃まで続くことになる。
350年経った今でも使われている玉川上水。それを造った男たちの話を知ってしまうと、玉川上水の何でもない景色が何か今までとは違って見えてしまうのは気のせいだろうか。先人たちの情熱と責任感に頭が下がる思いだ。
近くにある羽村市郷土博物館では、常設展示「玉川上水をまもる」コーナーがあり、玉川上水の歴史に関する展示が充実していますよ。
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